ペテロ第一4章
4:1 キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。
キリストは、肉において苦しみを受けました。肉は、肉体のことではなく、人の内にある肉のことです。肉において苦しみを受けるとは、肉に従うことがない時に受ける苦しみを言っています。キリストは、肉を持って、来られました。しかし、肉を殺し、聖霊によって神の御心に完全に従われたのです。その時、肉との戦いがあり、肉を殺し、肉に従わないときに、苦しみを経験されたのです。空腹を覚えられた時、肉の欲を満たすために行動して、御心を損なうことはありませんでした。荒野での試みの時、そのことを証明しています。その時、何の苦しみもなくそれを実行できたわけではありません。
私たちも同じ心構えで武装するのです。すなわち、肉との戦いに備えて決して肉には従わないように武装するのです。私たちが今日経験している肉との戦いは、キリストが経験されたことです。完全に勝利されました。
肉との戦いで苦しみを受けた人は、肉に従わない戦いの苦しみを経験したのであり、肉に従わないことで罪を行うことをやめたのです。
なお、肉は、肉体のことではありません。もし、肉体のことであるとすれば、苦行のような肉体の苦しみを経験した人は、罪を行うことをやめたということができますが、苦行によっては、肉に勝てないことは明らかです。信仰により、御霊によって実現できることであるからです。
・「罪との関わりを断っているのです。」→罪(の行い)をやめました。
・「心構え」→心の中に持っているもの、決まった (考え抜かれた) 意見、態度。思慮深さ。
4:2 それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。
それは、肉にあって残されている時を、もはや人間の欲望のためではなく、神の御心のために生きるためです。ここにも、肉にある時欲望が働くことが指摘されています。人間の欲望に従うか、神の御心に従うかの戦いであるのです。神の御心に従うことこそ価値があることであるのです。
・「地上での」→肉にある。
4:3 (なぜならば)あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。
信者は、かつて異邦人がしたいと欲していたことを行いましたが、それは過ぎ去った時で十分です。
・「好色」→性的欲望です。
・「欲望」→強い願望。肯定的にも、否定的にも。
・「遊興」→放縦と道徳的奔放さに満ちたお祭り騒ぎ。
・「宴会騒ぎ」→宴会騒ぎ。
4:4 異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、
4:5 彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。
彼らのしていることは、度を越した放蕩です。彼らは、自分たちと同じようにしないことを不審に思います。欲望を満たすことを求めないからです。また、中傷します。それは、自分たちの生き方を信者の行いが否定するからです。彼らは、神の前に申し開きすることになります。
このの裁きは、異邦人に対する裁きです。彼らは、生きている人も死んだ人も裁きを受け、永遠が決定されます。彼らは、なしたことに対して申し開きすることになります。
4:6 このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。
そして、ここでは、裁きがあることと関連づけて信者に対して教えています。信者も裁きを受けることになります。死んだ人々は、これは、信者のことです。なぜならば、文末には、霊において神に対して生きるためでしたと記されているからです。
死んだ人々が裁かれて栄光を受けるために福音が宣べ伝えられていたのです。この福音は、神の言葉全体を指します。信者の栄光のための福音です。永遠の滅びから救われ、神の御心を行って歩み、御国において大いなる報いを受けることです。彼らは、肉にあっては人間として必ず裁きを受けますが、霊においては、神に対して生きるようになるためです。人間として裁きを受けることは、肉に従ったただの人として、神の前に評価されない裁きを受けることを指しています。神に対して生きることは、肉に従わず神の御心を行った者として高く評価されます。
これは、対句になっていて、わかりにくい表現になっています。「肉において」と「霊において」、「人間として」と「神に対して」が対比されています。
4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
ペテロは、自分が置かれている時代が、万物の終わりが近づいている時であるという認識でいました。このことについては、第二の手紙でも、天地が終わる時として示されていて、その時が来るので、祈りのために心を整え、慎むことを直ちに行うこととして命じました。これは、次節にあるように、互いに熱心に愛し合うこととして現れます。不平を言わないのです。
真理に従うことにおいても、厳しされに偏れば、愛を欠きます。攻撃的になってはなりません。また、欲望のために生きてはならないのです。慎むのです。
・「心を整え」→神の目から見て、真の中庸を反映している。この神に支配された視点は、ある事柄の両側の真理の両極端を調和させる。アオリスト命令形。
・「慎む」→しらふ。罪の酔わせる影響(利己的な情熱、貪欲などの影響)から自由である。心の平静(明晰な判断力)を持ち、節制(自制)できることを意味する。アオリスト命令形。
4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
何よりもなすべきことは、互いに愛し合うことです。愛は、多くの罪を覆うからです。
4:9 不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。
不平を言うことは、愛ではありません。それを言わないで、互いにもてなすのです。これが愛し合うことです。前節と繋がっていて、愛し合うことの説明となっています。
・「もてなす」→この命令は、単なる親切心を超えて、他人であるはずの人々を意図的に歓迎することを前提としている。この命令は、神がキリストを通して罪人を寛大に受け入れてくださったことに基づいている
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
4:11 語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。
それぞれは、賜物を受けています。この賜物は、聖霊の賜物です。それは、恵みであり、「神が備えてくださる力」です。それは、語ることであり、奉仕です。すべての人に同じように与えられていることを意味していません。しかし、神の業の全ては、聖霊によって実行されます。肉によって、同様な働きがなされることがありますが、それはあくまでも肉の働きであり、聖霊によるものではありません。
それは、恵みであり、神が備えたものです。信仰によって受け取ることができます。その恵みとして受け取ったものを恵みの良い管理者として、その賜物を用いて仕えるのです。良い管理者は、忠実であることが要求されます。聖霊の御心のままに、それを用いるのです。肉を入れるようなことがあってはならないのです。
神の言葉を語る者は、神からの言葉として語るのです。書かれていないこと、推測、間違った解釈、人の考えなどを語るのではないのです。人の考えによる主題のために神の言葉を利用して語るようなことをしてはならないのです。
奉仕は、人の生来の能力によるのではないのです。神から与えられた力として奉仕するのです。
全ては、キリストの働きとしてなされます。そして、全ては、神の計画によることです。それで、キリストを通して神に栄光が帰せられるのです。
・「神の言葉にふさわしく」→神からの宣言として。
・「ふさわしく」奉仕し→神が備えてくださる力からのものとして。
4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
燃え盛る試練を受けた時、思いがけないことが起こったかのように驚いてはならないと命じられています。
多くの信者が燃え盛るような試練が与えられた時、「どうしてこのようなことが起こるのか」と思うことがあるのです。思いがけないこととして驚いているのです。また、それを受け入れることができないのです。しかし、その試練は神から来ます。サタンが働いているにしても、神の許しなしには与えられないのです。
・「不審に思う」→主に見知らぬ人や客をもてなす、または接待することを意味します。また、何か珍しいことや予期せぬことに驚いたり、驚嘆したりすることを意味する場合もあります。新約聖書では、特に仲間の信者や見知らぬ人を歓迎し、気遣う文脈において、もてなしのニュアンスを持つことが多いです。
4:13 むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。
逆に、キリストの苦難に与る程度に応じて、いっそう喜びなさい。そうして、キリストの栄光の現れの時に、歓喜に溢れつつ喜ぶことになるためです。ここでは、一章に記された試練についてもう一度取り上げていますが、試練を喜ぶように命じました。それは、非常に大きな喜びをもたらすからです。
4:14 もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
また、キリストの名のために罵られることを、「幸なるかな。」と言いました。その理由を示し、栄光の御霊、すなわち神の御霊があなた方の上で休息されるからです。御霊が豊かに働いてそれを完了して休まれるのです。
すでに御霊は、私たちに内住されますが、御霊が上におられるという表現は、御霊が強く働くことを表しています。そして、ここでは、御霊は、すでに働きを完了して休まれるのです。単に止まられることだけではありません。
・「とどまってくださる」→必要な目的が完了した後に(経験を)休息させる、「貴重な労苦と配慮の後に」一時停止する(休息する)。
4:15 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。
4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。
それで、犯罪者として苦しみを受けることがないように命じました。しかし、もし、キリスト者として(苦しみを受ける)なら恥じることはありません。この名のゆえに神を崇めなさい。
4:17 さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。
→「時は、神の家からの裁きを始めた。(アオリスト)」神の家からの裁きは、始まったのです。始まったことはこの時点ですでに過去のことです。「時が来ている」の訳では、近未来を意味しますが、そうではなく、すでに始まったのです。この裁きは、神の家としての信者へのキリストの裁きです。それは、この地上でなした善であれ、悪であれすべてのことが裁かれ、報いを与えられるのです。それは、キリストを信じた者に最初の時から行われています。
コリント第二
5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。
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これは、神の家にやがて裁きとしての苦難が来ることを言っているのではありません。もし、そうであるならば、文脈に矛盾しています。これは、苦難を耐え忍ぶことを勧めている文脈で記されているのです。それなのに、やがて神の家は、裁かれて苦難が来るので、喜んで忍びなさいというのは、整合しません。
4:18 「正しい者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」
正しい者は、かろうじて救われます。これは、信者に対する評価は、いかに神の御心を行ったかにかかっているからです。肉による行いは全く評価されません。イエス様と同じほどに神の御心を行うならば、高い評価を受けますが、そうでなければ、わずかな祝福を受け継ぐだけなのです。
コリント第一
3:14 だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。
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火の中を潜るようにして助かるのであれば、かろうじて救われることであるのです。良い働きのように見えても、全く評価されない行いがあるのです。
不敬虔な者や罪人たちの結末は、どうなるでしょうか。その結末は、永遠の滅びです。
4:19 ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。
神の御心により苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいを委ねなさい。たましいは、神の御心に従う座です。この人は、苦しみの中でも信仰により、神の言葉に従うことを求める人です。彼は、善を行うことを最善のこととして行なっているのです。それで、彼をどのように扱うかは、神様にかかっています。その方は、真実な創造者です。信仰に応え、契約を果たされる方です。そして、万物をご自分の栄光のために創造された方です。ですから、その人を通して神の栄光が現されるために真実に事を行われるのです。その方に委ねるのです。